本当ということ

飯田トウ隠老大師

己を忘れてほんとにその事に当るほど尤(もっと)も大きな且つ愉快なることはあるまじ。一々宇宙的なればなり。己れというものは、元来無きものなれば、志だに堅固なれば之を根本的に勦絶することができる筈のものじゃ。やれば誰でもやれるぞ、ということじゃ。只これを妨ぐるものは無明じゃ。これが遺伝的に粘著縛著しておるから、これがとれにくいじゃ。虚堂は、ここを「油の麺に入るが如し」と言うた。たとへば黴菌の根絶しがたき、その芽胞がしばしば濾過してもその目的を達しがたきが如しじゃ。悟ったと思うても微細の流注が残って取れにくいものじゃ。
馬鳴は「忽然念起を無明と言う」と釈しておる。忽然とは時間を言うたのではない。冷暖自知のものじゃ。不起一念とがありやなしや。雲門は「須弥山」とこたへた。その間すでに咎重きこと須弥山の如しぞとなり。臨済は「念起是病。不続是薬」と言うた。
誰がなんと言っても、そんな事は構いはせぬ。只ほんとにそのものになれば、そんな論はみな打ち消されてしまう。ほんとにそのものになれば、そのものばかりにして自己のなき事が自覚さるる。畢竟、己を忘じて、その事に当るを人生最終の目的とすればなり。只容易の看をなすなくんばよし。
ああ、何事も偽り多き世の中に、まことなきこそまことなりけり。末法五濁悪世の故にや。ほんとという信念は、いつのまにやら消えうせて全麻痺に落入りにき。虚堂も臨済も「汝ら病、信不及の処にあり」と言うたのは、ここじゃ。坐禅もほんとにやらねば、なんのやくにもたたぬ。ほんとのものが一人もない。「外寂に内搖くは、繋げる駒、伏せる鼠」とあるじゃ。兀坐非思量の面目いづくにかある。公案も生鉄をかむが如く、ほんとにそのものになるものが地を払ってなくなった。「動静純工其人如玉」と口には言えども、皆うそものばかりじゃ。
かくてはいくらやってもこれこれらの人で皆魂不散底の人とならねばならぬ。如来の生命たる正法眼蔵は滅亡するより外はないぞ。これを忍ぶべくんば何をか忍びざらん。元古仏が「須らく実を求むべし」とのたまひし家訓に向って何の面目かある。須という文字は尤も強き意味の文字じゃ。全力全挙をさすので、実の上にも実なれとなり。天桂は死にのぞんで、「汝ら足実地をふむべし。仏法に実なるもの世法に実ならざるはなし。世法に実なるものも仏法に実ならざるはなし」と。只ほんとになってほんとにやればよいのじゃ。ほんとになれ、ほんとになれ。何が故ぞ。丘の祷るや久し矣。
              七十一叟   トウ隠