1999年 山門大施餓鬼案内状


福寿山 海蔵寺                            

山門大施餓鬼法要

暑中お見舞い申し上げます。

先般の大雨により被災された方々には謹んでお見舞い申し上げます。
幸い、海蔵寺は境内・墓地所共に事無きを得ました。多くの皆様方より安否を気遣うお電話を賜り、深く御礼申し上げます。
あまりニュース等を見る機会がないので知りませんでしたが、広島市郊外等は土砂崩れで生き埋めになってしまわれた方がおられたり、川から氾濫した土石流が住宅地を襲い、床上まで土砂が堆積してしまった地域もあったそうです。誠にお気の毒に存じます。
結局、松が枯れてもそのまま放置され、山が荒廃した結果なのかも知れません。人の知恵で「これで良かろう」と思っても、少しでも手落ちがあれば、その結果は必ず出ます。自然の因果は厳密です。
ノストラダムスの大予言なるものは、どうなったのか知りませんが、地球規模での危機的状況が何か起こっても不思議ではない時代になりました。環境ホルモンの問題にしても、そうです。狭い範囲の知見で良しと思っても、それが全体の中を巡りめぐった結果、とんでもない事態を引き起こしてしまうのです。
大地震に際して良寛さんが出された見舞い状に曰く、
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」
非情な言葉のように聞こえるかも知れませんが、ここに深い真実と人を思い遣る真摯な真心があるのです。災難に出会ってしまって、災害という結果が出た以上は対応するしかないのです。災難を呪ったり恨んだりしてみても何の解決にもならないので、心静かに余念無く素直に対応しなさいということです。その時、十方虚空諸仏諸菩薩、皆哀れみと慈悲を注ぎ玉いて、その人を助け擁護してくれるのです。災難そのものに安らぎと救いがあるということを知って下さい。つまり災難に逢ったら災難に成り切ることが大切なのです。
本当に生きると言うことは、間に合わせの「今・今」を大切にすることです。確かな事実を大切にしている人は、愚痴も後悔も不平もないのです。心に思い煩う隙がないので平安なのです。時には諦めも開き直りも必要なことがあり、健全な反省は健全な未来を導く元であります。それが前向きとなり活路を切り開くことになるのです。そうしますと災難が災難ではなくなるのです。何故か? 愚痴や不平を言う自分が無いからです。結局、何事であれ、「今・今」を「淡々」と「素直」にする事に尽きるのです。災難に学び、災難に感謝さえ出来る人になることです。
それが即ち、災難を逃れる妙法なのです。何時しか死ぬる身なればこそ。
ともあれ、災難に出会わないに越したことはありません。少なくとも自らの健康管理には各自お気をつけ下さい。
                                

 合 掌

  平成十一年盛夏

山門大施餓鬼法要

八月十一日(水) 十一時 読 経
十一時四〇分  法話 「心の健康」 (住職)
十二時十〇分


海蔵寺住          

井上希道 合掌