青野敬宗老師

青野敬宗老師

「発心寺寺報・第四号」より


不見庵・青野敬宗老師―臨済宗の師家分上となるも足れりとせず、正師を求め、ついに井上義衍老師と出会う。熱烈火の如き菩提心。わずか一力月余で見性。一転して薬屋の主人となり、後半生を市井に送る。
人生は日日今を大切に生きる晩年に至り、義衍老師遷化を機に、その境界は更に大いなる飛躍を遂げる。そして吹毛常に磨しつつ、本年(平成5年)三月十一日入寂さる。真に法を実証された希有な方であり、堂長老師との因縁も深い。
世俗を越え、出家をも超えたその御生涯は、接した人々に甚大な感化を及ぽさずにはおかなかった。
しかし、その普通ではない接化のあり方のため、強烈な個性のみが伝聞され、教えそのものは確かな形で残されていない。このままでは借しみて余りあること故、ここにささやかではあるが謹んで追悼の誠を棒げるものである。合掌

青野敬宗老師略年譜

大正三年 一月七日、愛媛県・大洲に生まれる。
二歳 実母と生き別れる。
十歳 実母が生きていることを知る。会いに行くが一週間前に亡くなっていた。墓前で泣きながら「魂はどこにあるの?」。この事が発心の因となる。
一四歳 尋常小学校高等科を卒業後、東京に出て水道工事等の仕事に就く。
大洲に帰って出家を願う。指を切断して決意を示すも、却って許されず。
二三歳 京都・鹿王院、宝鏡院の男衆を務める。この頃、天龍寺僧堂・関精拙老師に参ず。
出家得度し、妙心寺僧堂に掛搭す。時の師家・林恵鏡老師に参ず。
円福寺僧堂に掛搭す。
恵鏡老師の東福寺晋山に際して随行す。
宮崎県・高鍋に住職す。
第二次世界大戦のため入隊。
東福寺へ帰る。印可証明を得て、師家分上となる。
三八歳 昭和二七年七月、浜松・龍泉寺の井上義衍老師に参ず。印可証明書に曰く、「牛、山に入りて、水足り草足る。牛、山を出でて東觸西觸。不見庵敬宗の見性を証す。玄魯」。
四一歳 昭和三十年頃、愛媛県・宇和島の神宮寺に寓居す。
愛媛県・伊予の願正寺に住職す。
四五歳 昭和三四年、薬剤師・青野房子と結婚。今治市で「さくらい薬局」の主人となる。
六六歳 昭和五五年、小浜・発心寺僧堂にて後堂役として助化に当たる。約一年。
六七歳 昭和五六年三月、義衍老師遷化。「自らの欠陥に気付き、真っ正面から取り組め」との遺戒を受く。
平成五年 三月十一日未明、遷化。世寿七九。

「今、仏道はどこにあるのかね、雪渓さん?」

堂長老師(原田雪渓老師)のお話から

昭和32年 敬宗老師・義衍老師・雪渓老師私と同じく井上義衍老師に参じられた青野敬宗老師が遷化をせられて、いろいろ当時のことを考えさせられます。
たまたま蒼龍窟という所で、私共は、六、七人で集まって修行をさせていただいておりました。
ある日、敬宗師といっしょにお茶を飲んでおった。その時に敬宗師が
「今、仏道はどこにあるのかね、雪渓さん」
と、こう尋ねられた。
そこで、「仏道はどこにあるのか」と尋ねられた私は、彼の言葉をもう一度自分で、「仏道はどこにあるのか」と、反芻をしてみた。
その反芻が、自己の全体になった―今まで求めていたもの、探しておったものがきれいに、確かになくなった。
即ち、「仏道という幻影がなくなった」ということです。
そういう事実があります。それが私の今の様子です。本当に一言半句の下に換骨脱体をするということは必ずあるということです。
かなり以前から、「今のほかに求むべきものは何もないんだ」ということは、きちっと信決定をしておった。
今のほかに絶対にない。もし今のほかに自分の求めるものがあったならぱ、どんなに努力をしても、師匠の言うことをそのまま受け取ってみたとしても、今の外を求めることになると、それは誤りである。
しかし、このもの以外にない。薪を運ぶ、水を運ぶ、草を取る、読経をする、これ以外にないっていうことは、理として理解できる。
ところが、「ない、ない」という「ないもの」が残るんですね。
「ない」ものというのは、「ある」ということと同じことなんです。
自分の考えの中ですから、「ある」と言おうと「ない」と言おうと同じことなんです。言葉というのはそれほど微妙に人の考えを左右するものなんです。
畢竟、なんだかんだと理屈を言い、いろんなことを聞いても、結局これ以外ないじゃないか、っていうようなことで、自分自身を自分で納得をさせておるから、不自由じゃないですか。
そういう日が続いておったように思います。本当に困り切っておったという様子でしようか。とにかく「仏道はどこにあるか」ということを尋ねられて、自分でそれを探しておる、探しているその事実が仏道そのものであるから、求めることがなくなった。
本当にそういう事実がある。ですから、あの時に尋ねられなかったならぱ、どうだったろうかなと、今、思い出して話している訳です。

青野敬宗老師語録天真佛

友逮のように

私はね、坊主臭い坊主は嫌いやね。押し売りになっちゃうから。もう淡々として、友達のようになっておるのが一番良いんじゃないの。

出家の自的

いろいろなことがあるけれど、もう少し大きく考えて、世界の人類が手をつないで、殺伐なところのないように、貧しいものは助けて行く方法を講じて行くのが世界の宗教家である。
私はそれが為に出家をした。小さなこの人間一人の喜ぴの為に出家をしたのでは、私はありません。
私は踏まれても蹴られても、多くの人の下になって、本当の人間とは何かということを教えていきたい。それが為に私は人間に生まれた。それが為に出家をしたのだ。

一切放下

もう、何にもなしでいいの。目は目、耳は耳、ロはロ。この業織を全部分散して、任しておりさえしたら、いつも自分は性(しょう)(生命の根源)におるから、何でも入って来るんで、偏って、「これにしなさいあれにしなさい」つて、一っ言もいりません。
「放てば即ち満てん」と、放し切ってしまうんです。そこでさえおれば、不安のようだけれども一番早いの。だからどうか一切を放下した状態におって下さい。そうしたら早いんだから。
みんなね、それができないから苦しむんだから。何かに自分をくっつけておらないとおれない。

ゼロの人

ゼロのあなたが持っていらっしゃるゼロの自分を明確にすることなんです。捨てて、捨てて、何もかも捨てて、あなたの純枠性に帰りなさい、そうすると永遠の喜びがありますよ、とこう言うのです。
理屈の方でね、迫い詰めても、これはどんなにしてもだめです。理屈は後で分かるから。そうじゃない、何にもない自分をはっきりとつかむことです。じゃあ、どこでつかむか。つかむという表現をするけど、空気のようなものが空気のようなものを自覚するんですからね。だからもうなんにもないんだから、始末が悪いんですね、本当を言うたら。だが、そこへ何かの拍子で、ふっとなると、それから先は、その人のやり方一つで、ね、ず−っと徹底、もうキレーイになんにもないゼロの人になる。

コツコツコツ

分かるも分からんも、そういうようなことはね、常識の範囲ですね。分かるとか分からんとかいうのはね。そうじゃない。いやでもですよ、こう(コツコツコツ打卓)、これと同じになったとこは、どこですか。考えたら駄目ですよ。
(コツコツコツ)どこがこうなっているの、あなたと。で、止んだら何にも。同じようなことを「コンコンコン」言うたって、それは真似でしょう。じゃ、これと同一に、あなたのどこがなっとるんですか(コツコツ)。これ聞いとると言ってますか。じゃ、どこに(コツコツ)あるんですか、これ(コツコツ)。こんな素晴らしいもの(パンパン打掌、コツコツ)今、その通ーり、寸分違わずになるところはどこですか。

義衍老師との相見、そして見性

「老師は何を得たから満足しとられる」
「得るものは初めからないのじゃ。備わっとるよ」
「じゃ、どうしたらいいんですか」
「これをやるのには、ここから聞いたら、こっちに出しなさい。ここで『おいっ』と言ったことを『何のために』と、ここへ持って来て『ああ、敬宗が呼ぱれておるんだな』と。それは作った世界だ。だから、ここから聞いたら、すっと逃がしなさい。目に触れても、そのままにしなさい。業織はそのまんまで、知と意で扱いさえしなければ、いつでもゼロのはずである。そのこと、それを教えておる。ただ、あるべきように、何も求めずに。今までやって来た事は後で役に立つから、ここへ暫く置け。そうして、もう何にも求める事をやめて、このままでおれ」
さあ、やろうとすると湧いて来るんでしょう。今までやったこと、ありとあらゆるものが、本当に限りなく出ます。そのたんぴに、自分で処理をせずに、すぐに老師の所へ行って、何一つ隠さずに言いました。そしたら、それを「放っとけ」とか、「取り合うな」とか言うて、きちっと答えをしてくれますから、その通りにおったのですね。
それから一力月くらいやったね。玄関を出た途端に、あの真ん丸い月一つ。もう何にも見えない。もうそれだけ。つねってみました。「気は確かだ。よ−し」と思って、
「表へ出た途端に、戸を開けたら、月と一つになって、何にもなくなったんですが、どういう訳ですか」
「それは知っとるからつまらん。何にもなかったら坐んなさい」
「はいっ」と言って、坐っとったら、こうですね、薮が。ざっざっざっ、こう動くですね。自分もこうなる。全身全霊が、薮と一つになるんですね。それで又、飛んで行って言う。「それもいい。それも放っとけ」
それから一週間、飯食わずにやったね。
ちようど八月だから、毎晩毎晩、盆踊りの稽古をやってるのね、後で聞いたら。その太鼓の音が鳴る度に、飛ぴ上がるんよね。それほど概念の意識が、キレーイに落ちてしもうて、分別するものがキレーイにのいてしもうた。だから、いつでも空気のような状態やから、「ポン」と来たら、「アッ」となるということやね。
ものといつでも同化するだけの小さな芽が出来つつあったんやね。
そうこうしおる中に、あそこの奥さんが廊下を通って歩いて行く音が、トン、トン、トン。
「あっ! おれは、何だ。体も何にもないじゃないか。こう言って、喋らすもとが、おれじゃないか」
それから、「ヨシッ!」と言って一生懸命、眼をおっ開いて坐っとって、明け方の太鼓の音で、「ナーンッジャー!」と、うれしゅうなって、涙ボロボロ出た。
夢  * * *
義衍老師が亡くなられる一週間前に行った時に、小さい声で、「敬宗君ね、わしもやってしもうて何にも不自由はなかったけれど、ある時、ひょっと気になり出したものが出た。だから敬宗君も必ず、ひょっと自分の欠陥に気付くから、その時は逃れずに、それと四つに組んで解決をせよ」
と、こう言われた。
なーに、もうこれ程どうしたってきれいになっているのに、何を、と言っていたのが、どっこいですね。
「何故、見性せいだの、悟れだのいうことぱかりを、わしは言うんだろう」と、ひょっと気がついたんですね。
禅だの宗教だのいう一つのことを立てて、それの上におってしか話をやろうとしないのですね。
「あっ、ここだなっ」と。



青野敬宗老師語録・全



編集後記

春蘭(たけなわ)にして花落つるの晩
訃(ふ)は到る哲人萎(しぼ)むと
邃(ふか)く休寛の智を秘め
屡(しば)しば寒拾の姿を為す
宗門は名利を競ふも
市隠は栖遅(せいち)を楽しむ
道を窮徒に説いて久し
徳功誰か知る有らん
   弔青野不見先生
              磨磚舎主人
これは敬宗老師の弟子の一人による弔辞である。老師の面目が的確に表現されていると思う。
敬宗老師のことを何らかの形で残しておきたい、と思った。小生自身、ついに相見の機会を逸してしまったから、老師はどのような方だったのか、どのような教えを説いておられたのか知りたかった。多くの方々のご理解ご協力を頂き、追悼記事をまとめることが出来ました。謹んで感謝申し上げます。
勿論、これだけでは老師の一側面しか伝えられていない。将来、具眼の士によって語録、年譜等が大成されることを切望している。
見性の一大事の重さを痛感した。浜松・龍泉寺のおばあちゃんは、「あの日」のことを感激を込めて話して下さった。そのお話を記事に反映させられなくて残念であり、申し訳なく思う。
老師の晩年の行履に深く参じてみたかった。側近にあった方々のお話を断片的にお伺いすると、そこには「吹毛常に磨す」お姿が拝察出来た。尊い行履だと思った。