2/20 午後3時、海蔵寺出発。午後6時、夢前に立ち寄り母を訪ねる。午後9時前、舞鶴港着。與世田太仙師の自坊が近くにあるはずだ。連絡を取ってみた。実に喜んでくださり帰りに立ち寄る約束をした。午後10時30分、新日本海フェリー「らいらっく」に乗船開始。乗船直前から雪が激しく降り始めた。タイタニック号ほどではないが、定員800名弱、20,000トン近いフェリーである。車は、大半がトレーラーの荷台部分のみで、ほとんど隙間なくビシッと詰め込まれていた。乗用車は10台ほどのみである。降りしきる雪の中、午後11時30分いよいよ出航。冷え切った乗客を暖めるためか、船内はとても暖房が効いていて、暑い。薫は乗船前に大根を丸かじりしていたが、どうもそれが悪かったらしく最初から元気が無くなった。夜中に外を見ると甲板の向こうを光が前から後ろへと動いて行く。不思議に思い薫を呼ぶと多分波に船の明かりが反射するのだろうとの見解だった。
2/21 朝一番で薫が水平線だよと起こしに来る。
波はあまり高くないようだが、それでもいくらかは揺れる。少し揺れの大きな時に、立って何かをしていると気分が悪くなる。そういう時は、横になるのが一番である。風が強いからという理由で、外には一切出ることができない。ガッカリである。船内を探検して回ると、大半の人が寝ている。それが一番良い過ごし方なのかも知れない。船内の食堂や売店、自動販売機で売っている物の値段は地上での通常価格と変わらない。給湯室があるので、食事はカップラーメンで済ます人が多いようだった。
今日は誕生日だと言うのに薫はちょっと調子が悪い。欲しがっていた小さ目のシステム手帳をプレゼントにした。喜んで、ずっとそれを抱えて寝ていた。すてきな船旅をプレゼントしたかったのだが、あまり優雅な船旅にはならなかったようで、残念。
2/22 3時過ぎから微かな音楽が流れ始めやがて下船準備の案内アナウンスへと変わる。4時着岸、間もなく下船開始、車輌甲板も開放され遂に小樽港へ上陸。未だ真っ暗だが街灯の中
雪が明るく浮かび上がっている。運転は薫に任せ一路目指す稚内に向け出発した。「久しぶりの雪道だから」と慎重に走るレオーネを雪煙を上げてトラックが次々と抜いて行く。
5時半、猛吹雪の石狩川を渡る。風で雪が舞い始めると前が見えなくなる。路側を表す紅白の矢印が道路の上部に下がっている。それだけが路上にいる為の唯一の頼りだ。
除雪車なるものも始めて目にした。ブルドーザーのバケツ (すくう為の箱の部分)
の爪が無いようなものが付いた大きな作業車だ。薫曰く「除雪車に付いているのはハイドバンです」。形も大きさも様々でどれも雪の無い土地の者には珍しい。さらに驚いていたのは、ガスバーナーで融雪をする作業車である。小型の自家用の物もあちこちで雪を飛ばしていた。時間とともにスコップで各自の家の前の道を確保する人が大勢になる。
最初の休憩地・黄金岬に着いたのは8時半くらいだった。2時間ほど休憩 泉氏に連絡を入れルートを確認して再出発。
次なる休憩地となったのは 道の駅 富士見 であった。ちょうど良く昼食を取る時間となった。
天塩から海沿いを走る道路へ分かれたほうが景色が良いと指示されていたので、原野と海に挟まれたとても直線的な道を走った。途中でキタキツネが出て来たり、風が創り出した雪の芸術作品が有ったりと何度も車を止めた。利尻島が富士山のように美しく見えるとお聞きしていたのだが残念な事に見れなかった。稚内側には水平線が見えるのに利尻島を包むように雲がかかっている。稚内入りしたのは3時であった。
泉氏の居られる稚内グランドホテルを訪ねる。ホテルの有る一角をぐるりと回り、玄関まで車がたどり着くとそこへ丁度
お客様を送って泉氏が出て見えられた。「冬の稚内へようこそお越し下さいました。」と瀬戸内からでは想像も出来ない事を次々体験させていただいた。ロシア語の会話が聞こえる
(まるで分らないのでロシア語だろうと判断するだけなのだが・・・) 食堂でコーヒーを頂き、車が近づいても逃げようとしないカモメの群がる港へ出掛け、ロシアからの蟹の運搬船も見に行った。日本の船と違い実に錆だらけで本当に大丈夫だろうかと思うほどだ。犬もいた、「ロシアの犬だ」とはしゃいだ薫に船の乗組員も大サービスで記念撮影が出来るよう犬にオスワリをさせようと頑張ってくれた。月を眺めながら雪の舞い込む露天風呂へも入った。外気温が低いのでゆっくり入って充分に温もってものぼせない。塩分が強くつるつるしたお湯であった。
オホーツクの海の幸の話を伺いながら頂いた品々は正に稚内ならではの大物ばかりであった。話に驚き、料理に驚き、自然の凄さにも驚いた。
中でも一番嬉しい驚きは我々の門出を祝い用意してくださったケーキだ。店内にいらした全員のお客様も祝福して下さり皆でケーキを頂いた。その温かいお気持ちが実に嬉しかった。泉氏の奥様も加わって下さり、10時半まで北国のお話をうかがって盛り上がった。
2/23 早朝、聞きなれない音に目を覚ます。除雪車だ!窓に駆け寄り確認、すぐさまカメラを用意する。自分が浴衣姿のままなのも忘れて窓から除雪車を撮影。近くへ行きたいがどう見ても除雪の邪魔になってしまいそうだ。作業を終えて音が遠のく頃、はっと気付いて慌てて窓から離れ着替えた。
北国の新鮮な朝の空気を吸ってホテルの周りを散策した。
すぐ近くのアパートの2階の屋根から伸びたツララが1階にとどくほどに成長しているのを薫が見つけて呼びに来る。
朝日を背にしたホテルの姿もなかなか良い。
足元の雪は歩くとギュギュと音をたてた。まるで片栗粉のような雪だ。真っ白な路面の所々にてかりのある所があり、うっかりそこに踏み出すとツルリと滑る。薫はわざと滑って楽しんでいた。すっかり冷えてホテルへ帰っていると、後ろから声を掛けられた。泉氏である。ツララや雪を喜ぶ瀬戸内者の感覚を笑いつつ、「稚内の冬の必需品です」と長靴・手袋姿で車から降りてこられた。
朝食後、ロシア料理のメニューや会話用の参考書などお見せ下さり、また稚内の漁の話などもお聞かせ下さった。10時半、先ほどのお話にあった漁船のある港へと案内していただく。ロシア人専用のお店、氷の張った港を回って、野寒布岬へと先導していただく。朝の晴天が嘘のような猛吹雪の中で「ブリザードですね」と笑いながら
これからの道を確認して下さり、真っ白に成りながら別れの言葉を交わした。しっかりと握手を交わしホテルへ向かわれる泉氏を見送った。遠ざかる車窓に手を振る後ろ姿があった。本当に
ほんとうに 有難うございました。
凍った港を通り、珍しいアーチ型の防波堤を見て、方丈に一報入れる。安心してくださった。
「ラーメンは北に行くほど美味い」と言われたので、最北端の街を去る前に昼食を取った。地元の人でごった返した中華料理屋へ飛びこんだ。何処でも人気の店には理由がある。後は食べて知るべし、その店の名はタイガー(大雅)である。
宗谷岬までの道も快調、天候はあっという間に変化するが目的地はカメラに収めた。最北端で薫は凍りそうな中、せっせと葉書を書いている。「最北端のポストから出したい」と言う訳である。姫路の母もこの発想には驚くだろう。しかし言うは易し、行うは・・・とうとう宗谷岬を後にしたのは5時が近かった。遅くなった分だけ夜道のドライブになる。今夜の目的地・紋別まで200キロ余りの道のりだ、それでも薫は満足そうな笑顔を見せていた。
道の駅
枝恵 に寄る頃にはすっかり真っ暗だ。そこでも我々を遅らせることが待っていた。「雪」である。と言っても吹雪ではない。
薫が舞う雪を捕まえて見せに来る。驚いた。雪印のマークだ!「これが雪の結晶だよ、ちょっとずつ違うのに皆6角形でしょ」と言う訳で、デジタルカメラに収めようと奮闘すること1時間。しかし、結局一枚もうまく行かなかった。薫が「天女ヶ原」と言った理由が解かる気がした。
2/24 昨日、泉氏が「折角だから」と予約してくださった
ガリンコ号・流氷クルージングで始まる。ガリンコ号はアルキメディアン・スクリュー
(アルキメデスの螺旋の原理を利用し、中空の円筒形に螺旋の刃を取りつけたもの)
を使った砕氷船である。互いに凍り付いて一枚に見える流氷を砕きながら1時間余りのクルージング。
音を立てて割れる氷、すっかり慣れて船の周りを飛ぶイヌワシや尾白鷲、氷の割れ目から氷上へ上がり日向ぼっこをするアザラシ。天候にも恵まれて乗務員もご機嫌であった。
紋別はこの時期
流氷色一色である。オホーツク流氷科学センターでは流氷が出来る過程を知り、冷凍庫で流氷に触れた。オホーツクタワーは現役の流氷観測所である。レーダーやリモートコントロール式の水中カメラの映像なども公開されていた。流氷と共に南下してくると考えられている、クリオネ
(全体がやや透明で 赤色の消化器官などが中央にあり、翼をヒラリヒラリとさせながら氷の海を優雅に泳ぐ、体長1〜2センチのまだまだ謎の多いプランクトンの一種)
などの観察も行っている。
陽気が良いので旭川へ向けて抜ける道路も行程の半分は路面が出ていた。夕刻になると晴れていた分簡単にアイスバーンになった。旭川市内は見事に透明の氷が交差点付近の路面に現れる。旭川へ入る前の下りの山道で「滑ってるよ」と笑いながら運転していた薫の表情がここに来て硬くなった、交通量も多く今までに無く神経を使う走行のようだ。市街地が終わり天人峡へと続く道に入ると車輌も疎らになり、輪だちが3本しかない道路が続いた。旭川から1時間弱。今日から2泊を予定する、天人峡パークホテルへ到着。
チェックインをする為に一旦エンジンを切ったのが間違い。かぶらせた。このホテルの駐車場ともその先のホテルへの通路とも付かない所でエンジンがかからない。10分待ってかけても駄目である。車と遊ぶこと30分、「バッテリーが弱ってきた」と薫はホテルのフロントへ相談に行く。「JAFを呼んだ」と不機嫌に帰ってきた。理由を話し「バッテリーをつながせてくれる車を貸して欲しい」と頼んだら「今乗ってきたんでしょ、何でかかんないの。そんなのどうせ駄目だから・・・・」とフロントで言われてきたらしい。JAFは「1時間半ほどしたらたどり着きます。その頃にホテルのロビーへ下りてください。」と言ってくださったと、三角の反射表示板を車の手前に置いて立ち去る。フロントに声をかけたが返事がない。その場に居合わせた、ホテルの板場の方に反射材を置いてはあるが、JAFが来るまで車がそのままになる旨を伝えた。フロント奥の事務所にいるフロントクロークにその旨すぐに伝えてくれた。一旦部屋へ入り、夕食前に車に忘れ物を取りに
行った薫は又ご機嫌斜めで帰ってきた。「表示板を移動させられていた。」と言うのだ。余程フロントクロークに嫌われたらしい。約束通り8時半をやや回るとJAFの車がホテルへの道に入って来た。薫はすぐさま飛び出して行った。あっという間にエンジンはかかった。結局、会員証や車検証を持ちだし書類を作成する時間を入れても10分ほどの事だった。「故障じゃないんだし大丈夫ですよ、良い旅を続けてください。何でも何時でも言ってくださいね。天候や路面、車の装備の相談でもお電話下さって大丈夫ですから。」とにこやかに立ち去った彼が帰り着くのは10時半が近いだろう。こりもせず薫は誰もいないフロントに「車は移動できた、川沿いの駐車スペースに駐車しておいた」と大きな声で報告している。開け放たれたドアの向こうから声だけが帰ってきていた。
雪に囲まれた露天風呂では月が見え、岩場に着いた氷や、雪を抱いた白樺がライトアップされていた。塀が一部立ててあるが混浴で、お湯は熱めである。他の団体は旭川から遠くない所の方たちらしく、瀬戸内の気候のことに話が集まる。薫はしきりに手を伸ばして嬉しそうに雪を口に運んでいた。
入浴後、薫は部屋の窓を開け乗り出して何かを始めた。雪をすくっていたのだ。カバンからは練乳、茹で小豆の缶詰め、抹茶も出てきた。美味い!おかわりをして食べても飽きない。
2/25 大智老尼のご命日である。
今日はこの天人峡で雪国を味わう計画だ。先ずは羽衣の滝までの道などを知ろうとフロントへ行ってみた。「今の時期は無理ですよ、先月末で3メートル以上は雪が積もっていたから道も分らないですよ」「我々も冬は行きませんから」と言われてしまい、困った顔をさげて部屋へ帰る。だが薫は「そう・・・」と言いながら物を引っ張り出している。「吹雪じゃないし少し散歩すれば良いか」と思っていたのに次第に様子が変わってきた。薫は「道はついてるはずだから出来る限りの仕度をして滝を見に行こう」と言うのである。しかし、地元の人も雪が深くて行かないと言うのに・・・。長靴履きで帽子に手袋に上着、「これで良いかな?」と自信を持って言ったのだが、薫にすそが上がらない為に、デイパックが濡れない為にと手を加えられた。
彼女のほうが装備が悪い。しかし肝心なことは押さえているらしい。布製のリュックの上からスーパーの袋をかぶせ、ウエストの絞れない上着の上からベルトをかけ、ズボンのすそもマジックテープのついた紐をかけてしっかりと絞っている。「雪の中で車の調子でも悪くなったらと思って持って来ていたのだ」と言う物がどんどん出てきた。なんとか格好が整った。ホテルのフロントで「雪崩とかもあるから勧めない、呉々も気をつけて」と言われながら出発した。
一番奥の旅館から僅か600メートルの散策道と地図には書いてあった。旅館・天人閣を過ぎると測葉箱が雪に覆われ、道は白い壁に突き当たっている。1箇所だけ誰かが踏み上がった足跡が着いていた。「ビンゴ!」薫はその前人の後に勢い良く脚を踏み込んで行く。壁の上部へ出る頃には膝の上まで雪の中に埋もれだした。一歩
又 一歩 踏むと雪は沈み脚がはまり込む。前人は相当体重の軽い人物なのか?「版画家の先生はカンジキを履いてストックを持ってスケッチに行ったのよ」と薫は言い出した。22日に稚内グランドホテルの居酒屋でその日呑んでいた版画家の先生が先般
天人峡にスケッチに出掛け、かの地が携帯電話の圏外の為に遭難したと思われていた
と語った と話していた人がいた と言うのである。なんと言う縁なのだ。「スケッチに行ったんだからきっとこの足跡は滝に続いている」と薫は力強く言い切る。
途中で薫の体重が限度と言う場所に踏み込んだ、とたんに雪の大地が抜け落ちた。脚の下には踏めるものは何も無い、胸まで雪にはまり宙吊りに成ってしまった。雪が下のほうで解けていたのである。四肢をフルに使って薫の助けもかりてやっと後方へ這い上がった。体重もさる事ながら歩き方が悪いとお叱りを受けつつ、迂回する為に誰も踏んでいない雪の中へ道を取った。何せ雪の中を歩くのは初めての事、全く要領を得られない。その上、暑い!回り一面
雪なのだから寒いのは分かるが暑いのだ。だが苦痛は全くなく面白い事ばかりである。(その場ではドキッとするのだが過ぎると実に面白い経験なのだ。)
急な斜面を横切る形で進むと回り一面に雪団子が転がっている。「これが雪崩た跡よ」と言われてみると自分が崩した所から下へコロコロと転がり落ちて行く雪団子がある。「これはだいぶ大きい雪崩だね」と上を見上げながら言うと思いっきり笑われた。「ほんの表面だけの最小規模のものよ」と言われた。どうか今日は雪崩がありませんように!
その後も何箇所か雪崩た跡に出会った。車輪のように転がって傾斜が緩やかに成ったところでパタリと倒れている面白い物もあった。
途中の川辺に水色の氷柱が下がっている。その下を流れる水も青い。周りの白さをさらに引き立たせている。
2、3度この辺りは大丈夫だからと前後を入れ替わり、前を歩いた。これほど違うものかと感心する。他人の踏み固めた跡を歩く方がうんと楽なのだ。足を着けると沈み始める、それが止まると後ろの脚を抜いて前へもって行くのだが
後ろ脚を動かし始めると前の脚がさらに沈み出す。ぐらついてしまうと両足が沈み込む。足元を注意深く見て歩く方が良いと思いきや「視線が近いから余計に歩きにくいのよ」と言われてしまった。「どうせ雪の中の脚なんて上から見えないんだから、少し視線を上げて安定して歩いたほうが良い」と言われてもそれでは何処へ脚を下ろしたら良いのか分からない。結局、脚は大抵
膝まで雪の中である。それでも後方に旅館は見えなくなった。正に雪に抱かれている。
どれくらい歩いたのだろうか?川が2手に分かれて片方側に橋が架かっている。足跡通りに進み橋に近づくと「見えた!」滝だ。高く聳え立つ岩場に何段にもなって落ちてくる滝が在る。遂に羽衣の滝を見る事が出来た。版画家の先生は橋を渡った対岸で眺めたのだろうか?雪を被った橋の向こうに滝の看板がある。「見つけた」先生はここでスケッチをしたのだ。我々も荷物を下ろし記念撮影。最高の気分で昼食の準備。手袋やタオルをビニール袋に突っ込んで座布団を用意し、雪を押し固めて椅子にする。周りが全部テーブルだ。背負ってきた材料を出し、作りながら頬張る。シーチキンとチーズをパンに・・・これで大満足。デザート用のスプンと抹茶と練乳も持ってきた。ここで食べる雪の抹茶ミルクは最高だ!美味しい、楽しい、嬉しい。もう言うこと無しである。
暫く止まっていたらやはり体が冷え始めた。歩くのが一番早く温まる方法と帰途に着く。「先生はあの上まで上がってるね」と足跡を見上げる。折角なので上がってみる事にした。かなりの傾斜なので一歩一歩階段を作るようにして登って行く。雪は深くなり見るからに危なげな所まで行って足跡が無くなっている。「ここで引き返したんだ」と更に覗きこむ薫を呼びとめた。少し戻って来て今度は登った傾斜を眺めている。「あっ」と思ったら薫はそこから滑り降りて行ってしまった。余りに予想外だったので呆気に取られて手袋の片方を落としてしまった。後ろから落ちてくる手袋も捕まえて、楽しげである。「早く下りといでよ!」と振り返って余裕を見せている。薫の跡へ脚を踏み入れると勢い良く滑り始めた。結構な速さで落ちて行く、見ているよりずっと面白い。雪山にはこんな楽しみもあるのか。往路と違い踏み込まれた跡があるので足取りは軽い。とは言え相変わらず膝上まで雪の中である。
途中で川原から湯気が立ち昇る所があり、薫は降りてみると下り始める。何かの足跡はあるがどう見ても人間ではない。「危なくないの?」と声をかけたが「鹿が下った所をたどるから・・」と言いながら姿が小さくなって行く。「鹿と薫じゃ重さが違うだろう」と再度呼びかける「危ないからこっち側には来ちゃ駄目だよ。」との返事。どっち側の事だろうか?仕方なく下って行く。薫は湯気のたっている辺りで熊のように両手で雪を崩していた。(動物園の熊しか見た事が無いので想像だが・・・)
僅かながら地中から湯が染み出しているのだ。周りの雪が溶け去っている。従って近くは表面しか雪が無く空洞になっている。薫はその空洞の中へ入り込んでいるのだ。
「良いもの見つけた、取って投げるからね」と雪の穴から声がする。「いい?行くよ!」の声で飛び出してきた。ふきのとう
が1つ・・2つ・・・7つ・・まだ飛んでくる。「取れた?」と顔の見える位置まで下がって薫が聞いてくる。「拾ったよ」との返事を聞いたら「良かった、でもそこ危ないから上に上がったほうが良いよ。」と言っている。下から見ると空洞になっているのが一目瞭然と言うわけだ。収穫物を袋に詰めてもとの道まで戻った。今夜のつまみはこれで決まりだ。
一番奥の旅館が見え始めた頃には歩き疲れてのども乾いてきた。休憩する事にした。水筒を持ってこなかった我々は水分補給にも雪の抹茶ミルクである。カロリー補給も出来て元気が出てくる。
宿に帰りつくとフロントから「お帰りなさい。大丈夫でしたか」と声がする。今朝、心配そうに見送ってくださった人だった。話をしていたら昨夜のフロントクロークが奥から出てきて「滝を見に行って来たなんて凄い」と薫に話し掛けている。人と言うのは面白いものである。
露天風呂で汗を流した後、収穫物を頂く事にする。どちらかと言うと山菜などには余り興味が無いが、冒険旅行の産物となると格別な味わいがある。美味いではないか。見ていると何と言う事は無い、刻んで醤油を掛けるだけなのだが・・・。
初めての雪中散策はさすがに疲れた。薫は夕食後、「版画家の先生にお礼が言いたいので泉さんに手紙を預ける」とテーブルに向かっていた。
2/26 良く晴れて更に雪が解けている。順調に車を飛ばし、旭川空港にて中村さんと待ち合わせた。中村さんの車に乗り込んで市街地へ。昼食は地元の美味しいラーメン屋ランキングで現在1位の山頭火と言う店だ。週末などはお昼前で材料が切れてのれんを入れてしまう事がしばしば有ると言う、中村さんお勧めの店。「ラーメンの味を見たいなら絶対塩です。」とのこと、「美味い!」これほどこくのある出汁は初めてである。大阪から来た人が毎日3食ラーメンばかりを1週間も食べ歩いたと聞いたが分かるような気がした。北海道では駅でも立ち食い蕎麦ではなく立ち食いラーメンなのだそうだ。
旭川の造り酒屋・男山酒造に連れて行ってくださった。ここならではの「雪がこい」などと言うのもある。試飲もした。どれもさらっとしたお酒だ。寒さと辛さは比例するのだろうか?辛口の酒が多い。資料館を見て回ったが、男山とは歴史の古い銘柄のようだ。井原西鶴、近松門左衛門、森許六、歌麿、赤穂浪士、頼山陽と有名どころが誉めている。海外の酒類コンクールでも多くの賞を受賞してた。一見の価値ありである。
酒蔵を後にする前に薫は雪を鉄棒で砕いて除雪しているのを見つけて、写すようにと呼びに来る。
市場を覗いて知らない魚や大きな蛸を見たりしながら少し買い物。「これがお勧めだ」と寒干しになった
たら を見せてくれる。「ゲンノウで叩いて食べるんですよ、そのままじゃ文字通り歯が立たないからね。」と中村さんの説明を受け、面白がって購入した。店員さんの強い押しに薫は筋子を購入。中村さんはいたまないかと心配そうである。
美瑛で前田真三氏の作品を飾る拓真館へ案内してくださった。写真で北海道・美瑛の四季を見る。自然は厳しいほど色が鮮やかに成るのだろうか。みどりが鮮明な夏の景色は今の美瑛からは想像できない。麦の穂が真っ赤に輝き、空がくっきりと青い。白1色の冬とは打って変わって多彩である。「夏にも来てください」と中村さんは言う。「いくらでも見せたい所がある」と言いながら、空港を経て札幌方面へ抜ける道まで先導してくださった。
結局、小樽まで高速道路を利用して難無く着くことが出来た。途中で雪解け水とホコリの為に視界がとても悪くなり、パーキングエリアで窓とワイパーを拭いたりはしたが、雪の心配は全く要らなかった。来る前の天気予報からは考えられない順調さである。
ホテルへ着くと、薫は「余りにも汚い」と駐車場へ持ちこむ前に洗車と給油に行ってしまった。暫くして「後で運河を見に行こうね」と白ご飯を持って帰ってきた。旭川で手に入れた筋子とご飯をキャベツで巻いて食べるのだと言う。なるほど悪くは無いが、それほど食べられる物でもない。薫はご飯と筋子の料が半々くらいで巻いている。どうやら味覚が違うようだ。
折角なので運河を見に出掛けた。地図を確認しなかったので明かりがある所を歩くと言った感じだ。運河の対岸には幾つも古いままの建物が並んでいる。XX倉庫、XX倉庫と書かれているが、明かりの具合がレストランかお店のような雰囲気だ。運河の終わり近くの橋の上で観光客相手のカメラマンが商談をしていた。なるほど良い風景だ。対岸の明るい通りを歩くことにした。倉庫はやはりレストランやバーなどになっていた。そのうちの一つ小樽倉庫No1と言う店に入って見る事にした。そこは地ビールをメインにやってる洋風の居酒屋といった場所だった。
チーズと地ビールを楽しんでいると
Chan G バンド によるジャズの生演奏が始まった。薫が「演奏者がのってる」と楽しげに眺めていたが、歌っていた方も「お客さんがのってる」と喜んでくれていたようだ。その日の最後のステージだった事もあり、演奏終了後に声を掛けると答えてくれた。丁度、我々の席の裏がスタッフの席だったのだ。途中からリーダーが我々の席に合流してくださって、バンドのメンバーのことや活動の様子などを伺った。閉店間際まで楽しんでホテルへ戻る。
2/27 「朝食はタマゴサンド」と言いながら筋子とキャベツをパンに挟んで齧る薫を見ながら、チーズキャベツサンドを食べる事にした。食後に薫は「新しい味が出来た」と中村さんに葉書を書いている。果たして中村さんは筋子サンドを作るだろうか?
午前10時のラベンダー号にて小樽を出発
再び船上の人となった。今回は薫が元気なので風にあおられながらも甲板を散策、船内も見て歩いた。「球技は苦手だ」と言っていた薫が卓球台を見つけて「どんな事に成るのかやってもよう」と言い出した。苦手だと言うだけあって下手である。しかし、ここは船の上予想だにしないことが起こる。波で揺れると固定されたテーブルだけが留まり球と人間は・・・・・。その上に天井が低い、薫の新技が登場した。天井まで利用して不思議な方向から球が返ってくる。そんなもの取れるか?一番迷惑したのは隣のテーブルでごく普通の卓球を楽しんでいたカップルだ。「本当にごめんなさい。」
夕方から次第に揺れが大きくなる、荒天である。少し入力しようと思ったが、「駄目だ!」ベットにうずくまって過ごす。画面を見ていると特に悪いようだ。時間と共に風音が大きくなって行く。「しまった!」テーブルの上に置いたままにした湯呑や急須が飛び降りた。デスク上のペンやキーも飛んで行く。拾いたいのだが立っているのも難しい。理由は物理的な事と同時に生理的にである。夜中になってやっと頭を上げて薫を見たら「ほんとに何も要らないの?」と聞いてくる。どうにもお腹が空いたと言った様子で、お茶を入れおにぎりに噛り付いている。揺れがひどく全て抱え込んで壁に張り付いて食べていた。翌日聞いたのだが薫が窓際の壁に寄りかかていた所、カーテンが頭の上を通りすぎて甲板の様子が良く見えたと言う。「この辺りにカーテンの端があった」と語ってくれたのでかなりのものだと分かった。繰り返すようだが船で不調の時には横に成っているのが一番だ。
2/28 夜が明けると波もかなり穏やかに成っていた。朝からのアナウンスも荒天、荒天と繰り返している。船長自らのアナウンスもあり昨夜は風速30メートルとの事だった。現在は安定し10メートルだそうだ。甲板には昨夜のしぶきが凍り付いている。窓にも塩水が乾きかけて結晶を作りつつあった。レストランも営業をしないので売店でお弁当を購入するようにアナウンスをしている。それでも空はどんどん明るくなって行く。午後には元気を取り戻し、カメラを持って甲板に出た。「気持ち良い!」陸地も見えている。数枚のデジタルカメラでとらえた画像を薫の希望でフェリー客室に用意されている便箋にプリントした。ここでも薫は手紙を書いている。定刻より遅れる事30分フェリーはいよいよ着岸である。
ふと窓の外を見るとパトカーが2台、赤色燈をつけて埠頭にいる。良く見ると更に3台の車の上にも赤い点があるではないか。事件なのか?このフェリーなのか?直ぐに接岸しない理由は何か起きたからなのだろうか?と眺めているとパトカーが何度も同じような走行を繰り返し始めた。しかも、妙に明るいライトを持って走っている人物もいる。どうやら撮影中らしい。車が止まる度にどっとスタッフが駆け出してくる。船内に「車輌甲板への出入り口を開放する」とアナウンスが入る。5時半過ぎ敦賀
上陸。
20日の約束通り與世田太仙師に連絡。若狭和田駅前にて待ち合わせた、発心寺の摂心
以来だ。5、6年にはなるだろう。変わらない溌剌とした笑顔が迎えてくれた。とても食べきれない大ご馳走で歓待してくださり、11時過ぎまで多いに盛り上がった。「朋有り遠方より来る・・・」と多いに喜んでくださった。実に嬉しい限りである。太仙師の時代を超え
空間を超えた話は薫と馬が合うようだ。アボリジニに、マヤに、ムー大陸。聖書に、銀河に、新人類。あっという間の3時間半であった。
3/1 良く晴れ雪を頂いた若狭富士が清々しい朝である。昨夜のご馳走が未だ胃の中に在るような気もする。薫は朝からお茶を入れてがぶがぶ飲んでいる。「砂漠化したら一番最初に干乾びて死ぬ」と本人は言っているが、あの位飲んでいればラクダと同じように一番最後まで生きていそうな気がする・・・。
時間を知りたくて宿のテレビのスイッチを入れると「・・・小樽では雪の為に視界を奪われた車xx台が玉突き事故・・・」とぐちゃぐちゃに成った車が雪を被っている映像が飛び込んできた。驚いた。我々の滞在していた間のことが嘘のような状況である。
太仙師の自坊・玉雲寺は海岸にほど近い静かな所である。若狭富士を借景に手入れの行き届いたこじんまりとした中庭があり、落ち着いた空間が広がっている。「集落全体がお寺と関わりを持っているが、出入りする人は少なく静かで良い」と語ってくれた。中庭に面した方丈間で太仙師自らお茶を点ててくださる。茶の湯の知識がないのでそのような流儀であろうと思って疑わなかった茶道具と作法を「これは私が作ったのですよ、心得が無いのを良い事に勝手にこんな工夫をしましてね。」とおっしゃる。太仙師らしい。お茶と話が進むうちに時計は昼を回った。来客があると案内する事にしている美味しいイタリア料理の店が近くに在ると言うので、太仙師の車を薫が運転して出掛けた。薫は唐辛子の丸ごと入ったスパゲティー・超おこりんぼう
を食べながら「美味しい!」と大喜びである。太仙師も汗を拭きながら「美味しいでしょ!」。辛くないものも取ってくださり、十二分にご馳走になる。1皿を2、3人で頂ける量であった。晴天の水平線を眺めながら食事をしていると冬とはとても思えない陽気であった。
再び太仙師の所でお茶を頂く。薫がどんどん飲むので、太仙師は終始お茶を点ててくだっさっていた。多分1人で6、7杯は頂いただろう。「そんなにお好きなら」と帰りがけに薫に抹茶を1缶進呈してくださったほどだ。
3時を回り別れを惜しみつつも、姫路へと向かった。途中、予定に無い回り道をした山中には大伽藍を有する八葉寺があった。薫が「どうも気に掛かる」と言いながら奥へ奥へと進み、行き着いた先には苔生した元禄時代のお墓があった。「これだ!」と薫は駆け寄って行く。中の1つが倒れている。山から石が落ちてきて台座ごと倒してしまったのだ。その先にも幾つかが倒れ、更に先では大きな木も倒れて崩れ落ちていた。このままでは崩れ落ちて埋もれてしまうであろうと思われるが我々にはどうする事も出来なかった。最初に見つけた倒れて苔生した元禄時代のお墓に薫は手を合わせている。般若心経を一巻挙げて、暮れかけた山寺の石段を下った。空には丸い月が浮かんでいる。
母の家が見え始める頃、母の自転車に追いついた。「今日は帰ってくると思って・・・」と笑う母の自転車の籠には今夜のご馳走の材料が詰まっているらしい。「ただいま」と上がる薫にチャトラン
(母の飼っているオス猫) が駆け寄ってくる。「今夜はお風呂よ」と猫に話し掛けている。不思議な事に薫だとチャトランは洗われても暴れないのだ。だから、来るたびに薫が捕まえて風呂に入る。上がると乾くまでコタツに放り込まれている。
ラップトップを広げて作業中の事だ「やられた!」、チャトランにケーブルを引っこ抜かれてしまった。じゃれ付いたのなら止める暇があったのだが、全く眼中に無く
勢い良く通過し引っ掛かってしまったのだ。がっくりである。
悪い事は重なるもので今日のデジタルカメラの映像は消え去ってしまった。玉雲寺も、太仙師も、若狭富士もここに載せる事が出来ない。とても残念である。薫は「イタリアンレストランの紹介もしたかったのに・・・」とこぼし、カメラを向けて猫を追っかけている。チャトラン、頭を下げて「ゴメンニャサイ」。
3/2 母が出掛けている間に隣の田崎氏のところを訪ねた。作業中だったのに中断させてしまった。何時もながらコーヒーを頂き、作品を色々と見せていただきながら、ついつい長居をしてしまう。薫の贈った作品
(竹紙で作ったバラの花) をいたく気に入って下さり、飾ってくださっていた。「やって見たんですよ。」と奥には田崎氏の作った花が飾ってある。材料の竹紙を進呈してくださった。凄い事だが薫の製作を応援して下さるのだ。その実、次は何が出来るのか楽しみだ。薫も田崎氏の大ファンである。作品は勿論なのだが芸術家で職人である田崎氏の生き方そのものを気に入っているようだ。「萱葺き屋根の仕事場が欲しい」と田崎氏が言う。薫は萱葺き屋根のお寺で幼少の頃を過ごしただけあって、現状での維持の難しさからマシな物件が非常に少ない事を示唆していた。余り雪深いと冬場に仕事が出来ないと言う問題点もある。自然と調和の取れた暮らしを心から望む人達にとって実に住み難い世の中になりつつあるようだ。